フランス流シンプル&贅沢なライフスタイルの基準
おはようございます。
朝晩と冷え込むようになりましたね。
今朝、ついにオイルヒーターを使い始めました、貪欲なシンプリストです。
昨晩は、ゆるりゆるりと読んでいた本を読み終えたのですが、色々シンプリストとしてのライフスタイルについて考えさせられることも多かったので、自分の頭の整理も兼ねて今回はこういうテーマで書き綴ろうかと。
そもそも「贅沢」とは
贅沢という言葉の意味を紐解いてみると、こう定義されています。
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1 必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと。また、そのさま。「贅沢を尽くす」「贅沢な暮らし」「布地を贅沢に使った服」「たまには贅沢したい」
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2 限度や、ふさわしい程度をこえること。また、そのさま。「贅沢を言えばきりがない」「贅沢な望み」
(goo国語辞典)
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そうなると、シンプルと同列に語ることには矛盾があるのでしょうか?
しかし、ローホーは贅沢をこう定義します。
贅沢の真髄とは、人の目にどう映るか、自分をどれだけ目立たせるかというよりも、感性を満たすもの、感動を与えるもの、ではないでしょうか。
感動がなければ、私たちの人生は耐え難いものになっていたはずです。
D・ローホーのシンプル本は時に理屈臭くて敬遠したくなる時も正直あるのですが、じっくり読んでいくと、哲学の領域に達しているところが気持ち良く、ずっと手元に置いておきたくなることもあったりします。
今回読んだこちらの本は、シンプリストとして改めて「贅沢」とは何なのかを考え、自分なりの基準が見えてきた感じがしますね。
それさえあれば、この先自分らしく生きていけるでしょうから。これはいわば、コンパスのような役割を担ってくれると思います。
エレガンス
シンプルに暮らす。少数精鋭のお気に入りのものに寄り添われながら、自分らしく生きる。ローホーはこの境地に単なるシンプリシティのみならず、エレガンスを見出しているようです。
エレガンスなんていう言葉が出てくるあたりおフランスって感じがしますが、ローホーが引用するココ・シャネルの言葉が説得力を持ちます。
贅沢の反対語は貧しさではありません。下品です。
ではその「下品さ」って何なのかっていうと、
「人真似をすること、個性を全く感じられない流行にハマること」
贅沢とは、自分らしさを徹底的に解明して、そこを生かすためにモノをコトを選んで行くコト、そしてその範疇に合わないものを徹底的に削ぎ落とすということなのでしょう。
お金のつかい方
シンプリストとして生きる上では、限られた財力の中、賢くお金を使いたいという思いがあります。
同時にお金の使い方次第では、贅沢なシンプルライフを送ることが可能になるわけです。
贅沢に生きることは、必ずしも所有する金銭の多い少ないによるものではありません、要するに、持っているお金を賢く使うことなのです。
自分が本当にやりたいこと、欲しいものをクリアにすることで、余計なことにお金を使わなくなる。そして単純に自分が求めるモノとコトにお金を費やすことができた方が、心の充足度が高く、これぞ贅沢な生き方だと言うのです。
心地よさ
自分が愛するモノ、心地よいと感じるモノに囲まれて暮らすと幸せを感じますよね。
自分がモノに合わせるのではなく、自分に合うものを選ぶ、または選べるだけの経済的、時間的余裕があることが贅沢ではないでしょうか。
シンプリスト、ミニマリスト界隈では、モノは少数精鋭であることに加え、一つひとつに高額なモノを選んでいく傾向もあるようですが、それはあくまでここの価値観であり、シンプリスト、ミニマリストとしての個人のあり方によって様々でしょう、
「ものは少なく」は今まで通りですが、高価な品を所有するのが嫌になったのです。
これは私の富に関する新しい考え方です。
高価な品を保存し、手入れをし、その責任を負うことを負担に感じるようになってきたからです。
実を言うと私も自分の身の回りには、職人の美しい手仕事による質の良いものをおいておきたいけど、そこまで高価なものである必要はないと思っています。
お手入れだとか、失ったときのせつなさなどを考えると、いたずらにお金をかけすぎることに対して気が進まない思いが生まれてしまうのです。
まあ、そこそこでいいかな、というような。
もっと言うと、お金のかけどころとそうでないところをうまく分けたい、といったところでしょうか。
時間の過ごし方の主導権を握ること
普段の生活では時間というものは、あっという間に流れていくものです。
しかし、休日、何の予定もなくダラダラ過ごす、自分の心の赴くままに過ごせる時を持つというのは、忙しい日々の中にあってはとても貴重。
起きたいタイミングで床を出て、好きなお茶なりコーヒーを丁寧に入れ、ぼーっとしながらゆっくりすする。
テレビを、映画を観るもよし、窓から見える空を眺めるもよし、本を読むのもよし、Youtubeやブログをひたすらサーフするもよし。
こういう過ごし方は学生時代の長期のお休みの時には、当たり前のような日々で、むしろ退屈さを覚えたものですが、社会人となり、自分の時間を人に預けるようになると、やりたいことをやりたいタイミングでできるというのは、お金に換えられない贅沢というものです。
もちろん、こんな過ごし方、毎日できるわけではないですし、できないからこそ宝石のような価値を持つわけですが。
旅に出る贅沢
世の中には旅好きとそうでない方に分かれるのですが、旅が嫌いならそこに時間とお金を使わず、自身が愛するモノ・コトに費やせば良い話です。
ただ、ローホーと同じく私も旅を愛し、旅を棲家としたいくらいの人間なので、旅ができることは大きな贅沢だと思っています。
そこに費やすお金と時間があることに、私はただただ感謝するばかりです。
旅にあなたを破壊する権利を与えなければ、あなたは旅から何一つ教えてもらえないだろう。
ーニコラ・ブーヴィエ(スイスの作家・ジャーナリスト)
未知のものに触れ、自分が持っている価値観が崩され、新たな自分へと脱皮をするのに、旅というのは一番手っ取り早い方法になります。
つかず離れずシンプルな人間関係
たとえ自室を自分好みにしても、寝具を心地の良いものにしても、人間関係で煩わされていてはストレスが溜まる一方。
人様とのおつきあいも、お互いに心地よいと思える範囲でシンプルにいきたいと思います。
そこには相手を思いやる気持ち、気遣いと礼儀、付かず離れずの距離感が不可欠だと思います。学生時代じゃないので、ベタベタした関係は卒業したいものです。
足るを知る
「欲しい」と思うことは「足りない」という思いと同じ。
ということを昔誰かが言っていました。
何かを求めること、愛することは悪いことではないと思いますが、「欲しい」という気持ちが自分の中で多くなってしまうのは、シンプルな生き方からすると考えものかもしれません。
今あるもので十分であるという思いが心の中にあることこそ、贅沢な思いなのかもしれません。
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