強欲なワタシが、いかにしてSimplistになったのか#3
帰国した私には更なる試練が待ち構えていました。
しかしその試練を通して、シンプリストとして更にワンステップ上がれた気がするのです。
⑥ついに訪れた終末期と、ありえない人間に囲まれた職場からの脱却~シンプリスト修業期
今回は帰国後に無職の空き時間を持ちたくなかったので、帰国前にベトナムで就職活動を行い、日本の企業に内定をもらいました。
引き続き海外勤務を希望していたのですが、次は日本とフィリピンを行き来する仕事となりました。
会社もそれなりにネームバリューがあるし、待遇面でも改善できたので良かった、よかった、と思ったら甘かった。
いや~、今までにお目にかかったことのないような人種(日本人ですが)だらけだったんですよね。
詳しくは書きませんが、正直この中で我慢し続けても、得られるものは少ないし、むしろ私のキャリアの大事な時期を無駄にしたくない、と思ってました。
更に小康状態を保っていた母がいよいよ危ないということで、私も海外へ出るのではなく日本にいたほうがいいという話になりました。
ただ会社とは海外に出ることが条件で雇ってもらっているので、いくつか交渉しましたが退職してくれと言われ、その通りに。
まあ、私もさっさとおさらばしたい会社だったので良しとしました。
さて、またまた3度目の無職生活が始まりました。
もう3回目なので慣れてます。いつもの節約モードにコードスイッチ。
外食控える、被服に金かけない。本は図書館。これ、鉄則。
ただ、介護に専心して社会とのつながりがなくなるのはいやだったので、週3くらいで入れるバイトを探したのですが、介護中だからか、ことごとく落とされる日々。
これはへこんだな~涙
ただ、次第に母がうわごとを言うようになり、入院し、夜も泊りがけで付き添うようになり、そうなるとバイトどころではなくなっていきました。
そしてついに訪れた2016年の12月頭の夕暮れ時。
母が他界しました。
悲しみに沈む間もなく、葬儀のことやお墓のことやら、医療費の精算や、レンタルしてた介護用品の返却と立て込んだ日々。
不思議なことに、母の死の直後に臨んだバイトの面接は即採用。
何とか食い扶持は得られることになり一安心。
⑦遺品整理と断捨離を徹底的に実行~シンプルライフ昇華期
母の死後、父との二人暮らしが始まりました。
週に4日は仕事に出るようになりましたが、残りは母の看病をしていたころに初めた在宅ライターの仕事もしていました。
しかし、当時の私はそれ以上に熱を入れていたことがありました。
母の遺品整理と大掛かりな断捨離です。
運気が下がっているときは、家の片づけ&断捨離で運気回復!というジンクスがあるので、実は母が病院にいる間も自室を片付け始めていました。
過去に引っ越しをしたり、シンプルライフを実践していたのにも拘らず、未だにモノが多いことが気になっていたんですよね。
で、我が家の最大のタメコミアンである母が亡くなり、私は容赦なく母のモノも処分することにしました。
冷淡なように聞こえるかもしれませんが、その時の私には使われることなく宝の持ち腐れになったモノを一掃しないと、私自身が先に進めない気がしたのです。
断捨離の詳細については、また別の機会に譲るとして、数か月して自宅にたまっていたものを手放し、断捨離も終盤を迎えたころに私も就職活動を行い、春からお世話になるところが決まりました。
文字通り人生の冬の時期でしたが、断捨離で乗り越え、シンプルな生き方を再考する機会となりました。